2009年6月25日木曜日

組織の盛衰―何が企業の命運を決めるのか 堺屋 太一 (著)

なんと嫁さんが「堺屋 太一氏」を知っていた。
経済学部在籍時、教科書かなにかで知ったようだ。

あらゆる分野において学問は存在するが、組織についての学問というのは存在しない。それを体系化しようと考え、書き綴った本。



前半はケーススタディ。

豊臣秀吉の話、面白かったなぁ。

豊臣秀吉は上昇志向の強い部下を活用し、短期間で天下を統一した。

しかし、そこからはゼロサムゲーム。

これ以上、領地を奪う場所がなくなり、活発な人たちのエネルギーを向ける先がなくなってしまう。豊臣秀吉は短絡的に外国侵略に着手するが成功を見ず、組織は崩壊していく。

何故面白かったかといえば、うちの会社にめちゃ当てはまるからだ(笑)

組織が急成長して安定期にはいると、上昇志向の強い人が組織を破壊する。

つまり私が会社を壊す人になるということだ(笑)

安定型の組織にしなければいけないらしいのだが、まぁ無理だろう



また、組織形態は共同体と機能体とに分けられるという話は、組織戦をやってきた私にとってはウンウンうなずける話だった。私の所属する組織が目指すのは、全体としては共同体だが一部機能体にすべきなんだろうなぁと思う。


あと、ソフトウェア開発業界で働く私は、常日頃、ヒューマンスキル的なものをもっと重視すべきだと考えていたのだが、堺屋 太一氏が提唱するヒューマンウェア(対人技術)という考え方は非常に軌を一にする。


以下、組織をぶち壊す方法が書いてあったので、覚書の為、抜き書く。


■組織の「死に至る病」

 腐敗よりも恐ろしい頽廃
 機能組織の共同体化を招く根本的な原因は、組織倫理の頽廃である。
 倫理には腐敗と頽廃がある。腐敗とは、悪いと知りながらも悪辣な好意が横行する現象である。汚職や権限の乱用、身内人事などは、倫理の腐敗に当たることが多い。これに対して倫理の頽廃とは、何が悪いかわからなくなる現象だ。世間一般では罪悪とされていることが、一つの組織の中では正義と認められているとすれば、倫理の頽廃の極みといえる。いわゆる暴力団はその典型だ。
 ごく普通の組織で起こりやすいのは、その組織が作られた本来の目的から逸脱し、自己の主観的倫理と美意識のみに埋没してしまうことであろう。例えば、工場が安全基準の達成や製品の品質向上に陶酔して、コスト感覚を失うことも珍しくない。ある支店が売り上げを伸ばす為に、同じ会社のほかの支店の活動を妨害していながら、数字の上の伸びだけを喜ぶこともよく起こる。当面の事業達成のために、世の法令や常識を犯して、結果的には全社的損害をこうむった例は、バブル景気の中でも多かった。いずれも長期継続的に利潤を追求する企業の本質から言えば、倫理の頽廃である。
 中でも著しいのは、利潤採算という形で結果の出がたい官公庁や軍隊の場合である。日本の各省庁は、本来、日本国民全体の幸せのために機能すべきものだが、今やほとんどは自省の目的追及だけを正義と考えるようになっている。大蔵省主計局は財政均衡だけを考えて国民経済の均衡を配慮しない。銀行局は金融機関の保護のために預金者の利益を考えない。農林水産省は米作農家と農協の保護の為には、日本を国際的孤立に陥れても平気である。特にこれが激しいのは文部省、厚生省、そして警察だ。この三つは、消費者側の意見を聞くことが無いし、聞く必要もないと思っているからである。文部省(教育)の消費者は生徒、つまり子供である。厚生省(医療)の消費者は病人だ。エリート意識の強い役人が、子供や病人の意見を聞くはずがない。警察にいたっては対象が犯罪人だから、なおさらである。殺人から交通違反まで、警察が手を出せば相手は犯罪者、少なくとも違反容疑者になってしまう。
 この結果、これら三つの分野では、コスト意識がまったくない。教育や医療の費用はどんどん上がるが、それも当然といわんばかりである。警察になると、要人警備のためなら、どれほど交通渋滞を起こしても苦慮することがない。日本だけが、東京赤坂の迎賓館以外でサミットができないという現象を、恥とさえ思わない。自ら明確な責任が降りかからない限り、国民生活の阻害も国威の損傷も気にならないのだから、官僚倫理の頽廃は著しい。
 もっとも、こんなことを指摘しても官僚組織が反省し改革されることはあるまい。それが「悪い」とわからないことこそ、倫理の頽廃なのだから。

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