働くことについて青春対話を読んで育った私には、この本は若干つまらなく、ほとんど流し読んでしまった。
あの哲学者はこう言っている。またこの哲学者はこう言っている。等々、歴史を振り返りながら仕事とはなんだっていうものを色んな角度から提示している。
読み終えて思うのは、仕事に対する考え方は色々あるなぁということ。そしてそれはその人の人生観であり、他人がどうのこうの言うべきものでもないということ。
こう書いてしまうと、この本は面白くないんだなぁと思われるかもしれない。が、そうではない。私の狭い器では拾いきれていない部分が沢山あるなというのが正直なところ。もうちょっとレベルアップしたら再度読んでみたいと思う。
以下、引用しつつ、感想を綴ってみたい。
古代の人々は、仕事は必要悪であり、呪いであると考えた。中世カトリック教会は、仕事に単純な尊厳を与え、ルネッサンス期の人文主義者は仕事を礼賛した。しかしプロテスタント教会は、仕事を通じて、意味、アイデンティティ、そして救済の証が追求出来るとした。仕事が単なる労働を超えたもの、仕事以上のもの、つまり「聖職」であるという考え方は、仕事の個人的で、実存的な性質を強調した。仕事は一種の祈りに変わったのだ。生活の手段を超えて、それは生活の目的となった。仕事は呪いから聖職に変わり、そして(略)数々のポジティブな個人的、社会的意味を持つようになった。
ほぇ〜〜、まったく知らなかったわ。仕事は必要悪で呪いだから出来れば自分がやりたくない。人にやらせよう。という流れで奴隷が出来たんだって。その奴隷の文化も最近まであったらしいし。我々が間近に感じることは少ないけど、「今日はなんとなく働きたくないなぁ」と思ってしまうのは「仕事は必要悪で呪い」というものに相通ずるものがあって、それが「面倒くさいから人にやらせよう」となると奴隷制度と変わらないな。と思う。
秘密を分かちあう
一九世紀の初期、アメリカ人にとっての雇用とは、プロフェッショナルを名乗ったり、商売をしたり、店を出したり、起業または開業したりするまでの一時的なものだった。それは、一九世紀半ばまでは、現実的な目標だった。しかし世紀末の急速な産業化がこの可能性を減じた。産業化に必要な労働力を生み出すため、実業家たちは独立と自給の社会的価値を再定義しなければならなかったのだ。
職人の価値と力は、何かをつくるための知識に由来するものだった。父親は息子に、親方は弟子に、その仕事の極意を伝授した。こうした極意を守ることは仕事の知識を伝えることと同じくらい大切なことだった。秘密は、職人に力と自立性を与えるが、アメリカではそれを守るための強力なギルド制度が存在しなかった。職人の識字率が上昇し、本やその他の出版物によって情報が普及し続けた結果、秘密であった極意を印刷物にして一般の人々に売る職人も出てきた。『一〇〇〇の価値ある秘密』(一七九五年)といったハウツー本は、製版、鍛冶、うわ薬、接合剤、蜜蝋、ガラス、染料、そしてめっきなどについての情服を提供した。一八〇〇年、アメリカで初めて、バティ・ラングレーが『大工のための建築パターン本」を刊行した。この本は、人気のある建築スタイルを実現するための簡単なルールを人にに紹介し、建築界に革命を起こした。ときに、こうした本には、親方が弟子に教える以上の情報が含まれていることさえあった。
これらの本についておそらく最も興味深いのは、長年秘密として極意を守り続けてきた職人たちが、自分たちの仕事のコツを熱心に教え合ったことである。この新たな開放性は、彼らが著者として金儲けをしたいという欲求から生れたのだろうか。あるいは職人仕事を民主化したいという欲求から生れたものだろうか。職人が自らの専門知識と製品を宣伝する手段だったのだろうか。あるいは、極意の公開は、物作りの技術と喜びの世界とを共有したいという欲求の現れだったのだろうか。おそらく、職人がそれまで秘密にしてきた技を公開した理由は、産業化によって、彼らの技の価値が下がったからであろう。しかし、理由が何であれ、今日でも盛んに出されているハウツー本の伝統は、この時代に始まった。精神的にも美的にも満足感が得られるような仕事を家庭で行うための手引きとなるハウツー本は、折りしも、家庭の外での仕事がますます単純で、退屈でつまらないものになっていった時代に登場したのである。
職人の権力と権威を弱め、彼らの仕事の意味加大きく変えたのは、ハウツー本ではなく産業化である。一八七〇年から、一九二九年の産業革命のピーク時には、アメリカの産業の生産量は四倍になった。機会化は仕事をより効率的にしただけでなく、一部の仕事を単純化し、人々を機械部品のように簡単に代替可能にした。労働者が自律性と自由を大切にしてきたことを考えれば、それはアメリカの勤労者を産業労働者に変えるための大きな権力闘争だった。
なんか、どこかで聞いたことある話だわ。
法主に代々伝わる秘密みたいなやつ。血脈的なやつ。
中興の祖、日寛上人が六巻抄でその「秘密にしてきた技」を広く一般化させたっていうのと流れが一致する。
テレビ
大衆向けのエンターテイメントは、受け身の余暇である。テレビは社会的コントロールの。形態とも言えるだろう。大衆的な余暇、つまり娯楽と仕事とはそれほど異質ではない。仕事と娯楽があまりにもかけ離れた活動であれば、仕事の世界から余暇の世界に、その都度適応するのが大変だからだ。大衆的娯楽は、仕事に二度と戻りたくないと思わせない程度の気晴らしである。大衆向けの余暇を区別するのはエリート主義ではないか、と言う人はこう考えてみてほしい。もっとテレビが観たいからと言って仕事に行きたがらない人がどれだけいるだろうか。毎日ソープオペラを見たいと思う人、休みを取ってまでワールドシリーズの試合を見たがる人もいるにはいるだろう。しかし、「あーあ、もっとテレビ見る時間が欲しい」などと言う人はほとんど見かけない。休みを取ってカヌーを作ったり、旅をしたり、家族と過ごしたいと思っても、もっとテレビを観たいとは思わない(たとえ、実際の休暇にはテレビを観ていても)。ここに、単なる娯楽とより高邁な思想としての余暇との根本な違いがある。大衆的エンターテイメントは、やりたいとか、やらなかったら良かったなど考えずに、すぐに始めたりやめたりできる。それは楽しいが、ほとんどの人にとって、持続する意味は持たない。テレビが好きで、観たいと思うのは、いつもそこにテレビがあるからだ。ほとんどの人は、テレビを観たいと心から熱望しているわけではない。
ヴィートルト・リブジンスキーは「週末は、たのしい」のなかで、テレビは「大食漢」だと述べている。ほとんどのアメリカ人は、一日三時間、週二一時間、テレビを見て過ごす。リブジンスキーによれば、歴史において、それだけ長時間続く気晴らしは、十八世紀における読書しかない。人々が読書するよりテレビを見て過ごす時間が長い理由の一つは、読書が短時間の規則的な毎日の習俗であるのに対し、テレビはいつでも好きなときに見られるからだと彼は考える。また、本を読むときは、話の筋を思い出すために以前読んだ箇所を覚えていたり、読み返したりする必要があるが、テレビは視聴者にそういう知的努力をほとんど要求せず、話の筋を思い出す必要もない。テレビドラマは毎回それまでのあらすじを解説してくれるだけでなく、次回の予告までしてくれる。リブジネスキーは、一般的にテレビ観賞にはほとんど知的関与が必要ないので、テレビは「観る(watching)」するのではなく、むしろ「凝視する(staring)」と言うべきであると述べている。テレビ凝視は完璧な「娯楽」、つまり仕事の気晴らしだ一一それによって、わたしたちは「間の抜けた目つき」になるからである。
娯楽と違って余暇は、人々が意味のある仕事に従事している際に感じるのと同様の、持続する興味と満足をもたらしてくれる、余暇活動はふつう、熟考、学習、そして技能の習熟を必要とする。リブジンスキ—は、「週末は仕事からの逃避揚所ではなく、意味のある仕事を創造し、仕事に対する精神的な報酬の欠落を補う場である」と主張する。しかしこれまで見て来たように、あまりにも疲れていたり、あまりにも忙し過ぎたりして、そういう種類の余暇を楽しめないこともある。多くの人が求めているのは、仕事を忘れさせてくれる娯楽なのだ。テレビ鑑賞のような娯楽が悪いというわけではないが、テレビを見るくらいのことしかやろうと思わない、あるいはそれしかできないと思うくらいに、仕事が私たちの気力やエネルギーを奪い取っているのなら、何かがおかしいと言えるだろう、
仕事が余暇を規定する
マルクスは、人間性の存在を信じていなかった。彼は、「人は何をするかによって何者になるか決まる」と考えた。仕事は、物質的な世界を作るばかりではない、動物的本能に支配される人間は、仕事を通じて、意識的で、自律的で、目的志向の存在になる。仕事が退屈でくだらないものであれば、それは人の成長を阻害する。マルクスは、このような仕事をしている人間は、動物的機能(食べる、寝る、生殖する)においてのみ人間であり、人間的機能(働く、自由時間を過ごす)においては動物である、と書いている。
ボリバーとマリエンタールの例で見たように、仕事をすること、あるいは失業することは、良い意味でも悪い意味でも余暇に影響する。このことは社会学者たちの研究によっても確かめられている。スタンリー・パーカーは、仕事が私たちの自由時間の作り方を決めると言う。なぜなら、仕事はつねに私たちの頭の隅にあるからだ。退屈でストレスのたまる仕事をしていると、しばしば余暇も満足のできない内容になる。パーカーによれば、仕事と余暇に関する社会的研究のほとんどが、余暇は仕事の一部分を反映していると結諭づけている。
こうした研究は古くからある、一九〇〇年代初頭に行われた研究では、酒場でビールを飲んで憂さ晴らしする時間が最も長いのは、最も卑しく、で低収入の仕事に就いている労働者であることが明らかにされた。刺激的な仕事をしている人は刺激的な余暇を求め、つまらない仕事をしている人は受け身の余暇に甘んじる、とも言える。たとえば、一九七〇年代に行われた研究では、ストレスのたまる厳しい仕事をこなしている航空管制官は、公務員よりもより難易度の高いレジャーを求める傾向があることがわかった。スウェーデン人労働者を対象とした六年間の長期的調査の結果、受け身の仕事をしている労働者は、受け身の余暇を過ごし、能動的な仕事をしている労働者は能動的に余暇を過ごすということが明らかになった。
仕事と余暇の関係性の洞察は非常に面白い。
仕事が充実している人は余暇も充実する。逆もまたしかり。
テレビをぼーっと見てしまうときは、仕事に対する考え方を振り返る必要があるな。
監修者解説が結構うまく纏められていたので、抜粋して書き残しておく。
本書が提示する読者への問いかけ
・働くことと余暇との関係はどうなっているか。余暇を得るために働いて、働き過ぎて余暇がなくなるというバラドックスに陥っていないか。もともと人間にとって、また、あなた白身にとって、遊んでいるときと仕事をしているときの、どちらが本来の姿なのか。仕事を辞めても平気なほどの富を蓄え、人生を楽しもうとする企ては、億万長者の研究によれば、自己欺瞞に終わる——結局、楽しまないまま逝ってしまう。
・どんどんと報酬が高くなっていくにつれて、より長時間働くようになってしまったら、際限なく働いてしまうことになるか。どこで折り返す(つまり、仕事の量を控える)べきか。また、そのタイミングはいつか。労働供給曲線は、縦軸に働くことから得られる報酬、横軸に労働の供給量をとって描かれる。それは、(集計レベルでは)右右上がりの形状言小されるのがふつうだった,つまり、高い仕事ならたくさん働くというわけだ。しかし、さらに高くなるとそれほど働かなくても済む。そう思うと、ある程度以上に収入が多くなると働くの控えるかもしれない。でも、さらに、高額の収入が示されたら、「そんなにいただけるのなら」と言って、また働く量を増やすかもしれない。(略)
・アリに近い働き方で、蓄えはするが自分たちだけのために蓄えるのが目的になっていて、しかも働きのなかの楽しみを失っていないか。それとも、キリギリスのように享楽的に生きているが蓄えのなさのために楽しみが半減していないか。両方の良いとこ取りで、アリギリスを目指す道が開けているか。その道がいい道だろうか。ハチのように勤勉に蜜を蓄えつつも、花を咲かせ植物が実を結ぶのを助けるような生き力がいいか。それともセミのように、短い人生で、ずっと歌い続けて(うるさいが)、飲むのも食べるのも忘れるような生き方がいいか。
・あなたは、好きなことを仕事にしているか,それとも、好きなことは余暇にとっているか。それはどうしてなのか。映画評論家になると映画を嫌いになるわけではないが、映画は好きなので仕事にしたくない人の気持ちもわかる。しかし、仕事のなかに好きだと思える要素がまったくないような羽目に陥っていないか。
・これまで、仕事を辞めようと思ったことがあるか。なのに辞めなかったのはなぜか。これまで仕事を辞めていた時期がある人は、その時期をどのように過ごしていたか。仕事のなかに、フロー経験と呼ばれるような楽しみ(たとえば、外科医は挑戦とも思える手術では我を忘れるほど集中することがある)を味わったことがあるか。なければ、どうしてそれを得られないと思ったか。仕事がやさし過ぎるせいか、自分の腕が十分に熟練していないせいか。逆に、仕事が難し過ぎるせいか、それとも腕が良すぎて何でも平易に思えるからか。
・先にも言及したが、いくら頑張ってもけっして完結することのない罰のような仕事に(それを望んでいるわけではないにしても)陥っていないか。ルクレティウスの描く水差し(穴が空いている)に水を満たすという課題、シジフォスの神話のように、山頂まで運び終えたと思うと転がり落ちる岩を際限なく運び続けるという課題、これとまったく同じくらいに悲劇的で不条理ではなくても、あなたの仕事のなかに、際限のない徒労、繰り返しの要素がないか。それに対して、どういう手を打てばいいのか。
・働くことに関わる様々な英語表現、また他の国の言葉やそれらの語源の説明が随所にあるが、あなたにとって働くことのどの側面を表すのに、どの言葉がフィットするか。ギリシャ語、タイ語、フランス語などは、ひとまずおいて、英語圏の言葉だけ並べてみてもつぎのようになる。work(作品という意味すらある、仕事)、labor(出産という意味もある、骨の析れる労働)、toil(体を酷使しがちな継続的で疲れる苦役、語源は壊すという意味)、drudgery(くだらなさ、単調さのゆえに敬遠されがちな労役)、job(分業のなかで細分化された職務。語源は、窃盗などあらかじめ計画された犯罪行為、私利優先で公的利益がニの次にされがちな取引)、calling(神からそれに打ち込むように招命された天職)など。今のあなたが仕事に求めているものはどれに近いか。今やっている仕事はどれに近いか。両者は一致しているか。
・キリスト教における七つの大罪は、傲慢、貪欲、色欲、憤怒、嫉妬、暴食、怠慢であるが(この議論についても、本書の内容に沿ったアジア版)、日本語版の労働観についての書籍がほしいところだが)、これらは、あなたの仕事、あなたが仕事上付き合っている人たちの仕事のなかに、どのように姿を現しているか。元々は、職業ごとに、犯しやすい罪があったことが西欧における労働観の発達を捉したと本書で指摘されているが、たとえば、わが国でも、政治家、医者、弁護士、学者など、また会社のなかでも、経営者、人事部長、情報システム部長、SEなどが、それぞれに陥りやすい罪は何か。西欧とは違う日本ならではの大罪には、ほかにどのようなものがあるか。
・火を盗んだプロメテウスは創造の神でもあるが、あとで苦労するということになっても、仕事のなかの創造的な要素を大切にするにはどうすればいいか。また、創造というと孤独なものと考えがちではないか。ボッティチェリもダヴィンチも、多くの職人たちとともに工房で創作をした。ベロッキオ工房もそうだし、本阿弥光悦も。あなたの仕事における創造の場は、どのようになっているか。
・ベンジャミン・フランクリンが富に至るには分別と勤勉と倹約が大事だと言ったのはよく知られているが、自伝のなかでは次の一一個の徳を述べている。節度、沈黙、規律、不屈、誠意、正義、中庸、明瞭、冷静、貞淑、謙虚。古くさいし国も違うと投げ捨てずに、「時は金なり」という彼の言葉、「金銭が目的であるとすればそれは人生を楽しむ自由だ」という彼の意見と併せて、自分に、また、周りの人に、これらの徳や格言が今ではどの程度当てはまらないか。それとも、部分的には今でも当てはまるか。
・職人の生活にあこがれることはないか。あるとすれば、それはなぜか。古くは、ルソーもまた職人に理想を見た。職人、職人芸、クラフト的な仕事について、あなたもあこがれるか。自分か職人ではなくても、自分の仕事に職人的な要素があると思うか。専門職には、職人と似ているところがあるとキウーラは考えているが、読者が専門職の場合には、そのことについてどう思うか。
・職場では、感情を出さないようにしているか。それはなぜか。それとも自然に感情を表出できているか。もし、朧場で感情を抑えているなら、あなたは、感情表出をどこで行っているか。仕事の性質上、感情を抑えたり、感情を表出すること(たとえば、マクドナルドのスマイルO円)が求められている面があるか。そのことが何か支障をもたらしていないか。
・勤務先ては「長いものに巻かれろ」という感じで組織人間として過ごしているか。それとも、多少ギスギスしても、上にに対しても言いたいことは言うようにしているか。組織に順応するだけの会社人間を「灰色の服を着た男」(スローン・ウィルソンの小説の題名)と呼ぶが、この男もまた、会社と闘い、自分に正直であろうとしていた。あなたにとって、組織とは何か。組織にいて貫いている自分というもの(キャリアの研究では、たとえば、キャリア・アンカーと呼ばれるものがそれにあたる)があるか。
・あなたの会社に企業倫理規定があるか。それをどのように読み、それに対して、どのように感じているか、最近の企業不祥事についてどのような意見をもつか。自分はそれに対して、何かできると思うか。
・社会学をかじったことがある人なら、本書を読んで、あらためてフレデリック・テイラーの科学的管理法、フリッツ・レスリスバーガーとエルトン・メイヨーの人間関係論について、どのように思うか(経営管理を大学で担当する監修者としては、シュミットの例示ばかりにこだわり、テイラー主義にあまりに否定的な姿勢には、異論がある)。これまでと経営管理に対する考え方が変わったか、深まったか。また、最近の組織文化やコーポレート・カルチャーの議論について、あなたの意見と著者の意見はどのように異なるか。それとも、同じか。組織が組織の価値を貫こうとしたら、個人の側はそれに負けて自分を曲げざるを得ないか。それとも、しっかりとしたキャリア・アンカーに基づき自己を貫く個人と、創業以来大切にしてきた基本価値や前提に誇りを持ちそれを貫く組織が、互いに緊張を孕みながらも両立しうるか。それはいかにして実現するか。
・手元にディルバートの漫画を持っている人は、本書とともに読み返して、どうして組織はしばしば個人に対して、ひどく接してしまうのか、という問を考えてみてほしい。本書で紹介される悪名高いクローン・プログラム事件を起こしたパシフィック・ベルに、抱腹絶倒の風剌漫画家のスコット・アダムスが勤めていた。彼の漫画を読み返して、会社の管理や研修がしばしば、いかに人を痛めているかを、批判的に内省してみよう。もっと人間らしい経営管理や研修を行うためには、どこに注意すべきか。
・時間の縛りから、少しでも自由になるために、どのような心構えとどのような雇用制度や人事施策が尊重されるべきか。時間は元々は、働く個人のものだった。しかし、工業化が時間規律を進展させた。勤務時間は神のものでも、労務管理担当者と上司のものでないとしたら、どのように自分の時間を大切にするべきか。仕事の時間と、家族との時間をどのようにバランスをとるのが望ましいと思うか。それとも、バランスをすでにあきらめているか。仕事の世界において、時間中心に仕切られる(時間志向になる)働き方以外に、あくまでも職務中心で取り組む姿勢(職務志向)がある。裁量労働制など時間の縛りをはずして、仕事のことは仕事の質と量を中心に見るという方向についてあなたはどう思うか、
・最後に、短い問いかけになるが、自分は意味のある人生を歩んでいると思うか。そのなかで、仕事は、どういう位置付けになっているか。キウーラの究極の問題提起にして、本書の最終章での問いかけだが、いい人生がいい仕事をもたらすのか。それとも、いい仕事がいい人生をもたらすのか。あなたの考えはどちらに近いか。それはなぜか。
※OCRで読み取り、補正したので、誤字脱字があればコメントお願いします。
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